気温はマイナス13度
スタート地点はマイナス5度でした。
雲巌寺に到着です。
参拝する人も殆どいません。
この『雲厳寺』は、臨済宗妙心寺派の名刹として、筑前の聖福寺、越前の永平寺、紀州の興国寺と並んで「日本禅宗4大道場」の一つに数えられている由緒正しき名刹です。石柱門の先には武茂川にかかる、朱塗りのそり橋『瓜鉄橋(かてっきょう)』。東山五橋にも数えられているこの橋の名の「瓜鉄」とは「子孫が長く続いて繁栄すること」を意味しています。
その橋を渡り、見上げるほどの石段を登りきると、天下人・秀吉による小田原征伐の焼き討ちにも耐え残った山門があります。
山門をくぐると正面に、長い歴史の威厳と風格を持った獅子王殿があります。雲巌寺は山号を東山といいます。仏国国師(後嵯峨天皇の第三皇子)が関東地方を行脚中、黒羽山麓に庵をかまえた時、八溝山の高梨勝願法印が国師に禅の教えを受け、その恩に報いるため八溝山を献上し、弘安6年(1283年)に執政北条時宗が雲巌寺を建立しました。
ご本尊は釈迦牟尼仏で、仏殿右に鐘楼、左に勅使門、平和観音堂、その近くには『芭蕉の句碑』があり、仏殿のさらに上方には方丈本殿が配置されています。勅使門の石段を登りきった左に『禅堂』があります。
暮らしの館に着きました。
かやぶき屋根が特徴のくらしの館。この建物は、今から約150年前に須賀川地区で建てられた民家を移築したものです。
物のなかには昔の生活用具が展示され、当時の住まいと暮らしの移り変わりを見ることができるほか、絵画などを展示するギャラリーになったりします。
囲炉裏もあり、金庫もありました。
人形も可愛いです。
玉藻稲荷神社は、その縁起にまつわる伝説「九尾の狐」を伝える神社としても有名です。
昔、狐の化身でありながらもその麗美な姿のため、帝にたいへん寵愛された玉藻の前という美女がいました。しかし、帝が病気の折の祈祷でその正体をあらわにした九尾の狐は、この地に逃げ込み、蝉に身をかえ桜の木の陰に隠れていたのですが、池(鏡が池)に映った真の姿を見つけられ討たれてしまったということです。
投句箱がありました。
本殿です
乃木神社に到着です。
コロナの影響か空いていました。
日露戦争で活躍し、明治天皇の御大葬の日に殉死(じゅんし)した乃木希典将軍御夫妻は「農は国の大本(おおもと)なり」と言い、自らスキを手に畑を耕した。
その姿に感銘した地元の人々が、「土徳(どとく)の神」として祀り、神社を創建。
学習院長として昭和天皇の御養育にあたられた将軍は、近年学業成就の神としての信仰もあつい。
境内には将軍の遺言書、刀剣など生前の人柄を偲ぶ品を展示する宝物館のほか、かつて将軍御夫妻が生活した別邸が復元されている。
乃木大将も透明のマスクをしていました。
烏森神社に到着です。
高台にあるので、遊歩道をあがって神社までたどり着きました。
平安時代の延喜2年(西暦902年)に建立され、明治21年(1888)那須野ヶ原開拓の祖印南丈作・矢板武が開拓の氏神様として社殿を再建、同時に神社を中心に松と桜を奉納植樹し、公園化を図りました。
もともと稲荷神社だったらしく狛犬ではなくてお稲荷さんです
それから近くの雲照時に行きました。
傑僧として名高い雲照律師を招いて開山した寺で、創建は明治20年(1887)5月5日と新しい。かつて那須野ヶ原、なかでも「西原」呼ばれる一帯は水に恵まれず、不毛の原野であったが、明治13年(1880)に那須開墾社などの農場が開かれ、さらに那須疏水が開通し、開墾事業は軌道にのった。こうして地域住民の生活が安定し、寺院の存在が必要となり、雲照寺が建立されたということです。
丸高黒磯店に行ってきました。
そのあとクリームパンにも(汗)