現場の帰りにさくら宇宙公園に寄りました。
もう五分咲きでした。
久しぶりにI-Nキッチン 高萩店に寄りました。
相変わらずナンは大きいです。
お客さんは先に一組いたのですが、帰ってしまうとそのあと誰もお客さんは入ってきませんでした。
この地域に、4件の同じようなカレー屋さんがあるのでお客さんが分散してしまっているのかもしれません。
トイレに行くと赤ちゃんがテーブルの上に・・・
お客さんのテーブルの上でおむつを交換していました。
自宅ならともかく、お客さんの食事するテーブルで従業員がおむつの交換はちょっとまずいような。(汗)
カレーの盛りは前より良くなった気がします。
ナンもお代わりできるのですが、そんなに食べられないですよね。(汗)
フルクラムレーシングライトを友だちから預かってきました。
レーシングゼロと比べると軽いですね。
久しぶりにすき家に入りました。
ランチ時ですが、テイクアウト以外はあまり客さんが居ませんでした。
キムチ牛丼のセットにしました。
走り出したらフロントが変速しません。
変だと思ったら、Di2のバッテリーが5%しかありません。
武家屋敷 旧平久江家に寄りました。
枝垂れ桜がありましたが、少し早かったです。
那須歴史探訪館に寄りました。
桜はまだまだです。
こちらは前に全然咲いていなくて、翌週は葉桜になっていたことがありました。
那須芦野・石の美術館 STONE PLAZAも静かでお客さんは誰も居ませんでした。
毘沙門天・三光寺に寄りました。八溝七福神のスタートです。
歓喜天尊の協力神として永久に働き続けるのですが、切実に心を求める時代に即応し本来の尊体を現され無量の知恵と財宝はもとより諸願成就の天尊とされています。
ご本尊は歓喜天(聖天)です。那須三十三観音8番札所にもなっております。札所本尊でもあるもこちらに安置されています。また八溝七福神の毘沙門天は本堂右側に祭壇があり、そちらに奉安されています。
堂の下の岩観音に着きました。
芦野石の岩肌の露出し、そびえ立ちます。その光景の中腹に赤い屋根の観音堂があり、通称「堂の下の岩観音」と呼ばれています。
観音堂や岩肌、そしてこれらをとりまく動植物が、独特な雰囲気を醸し出し、見ごたえのある自然景観を作り出します。
桜が咲き始まっていました。
良い感じです。
道の駅伊王野に到着です。
古いワーゲンのコーヒーショップです。
この車での移動販売は多いですよね。
布袋尊・不動院に着きました。
布袋尊は弥勒菩薩の化身。「オンマイタレーヤソワカ」と念ずると福徳円満の功徳があり、平和と安楽が得られるということです。
この鳥居をくぐるには川に入らなければならない、という不思議な鳥居です。
光丸山法輪寺)には境内から奥の院に行くまでに三つの鳥居があり、そのうちの一つ。本堂横の岩川をまたいで立っています。昔はこの川で信徒が沐浴潔斎し、六根清浄のうえ奥の院に参詣していたということです。
およそ1000年前に、慈覚大師の開基と伝えられる由緒あるお寺で、初院・中の院・奥の院の三院と大日堂(光丸山)からなります。西行桜(市指定文化財)や勅額(ちょくがく)門(市指定文化財)など数多くの文化財を所有しています。その中の一つ、大天狗面は、高さは2.14メートル、幅1.5メートル、鼻の高さ1.3メートル、重さ1トンで木製の天狗面では日本一といわれています。また、このお寺は鳥居のあるお寺としても知られています。
とちぎ名木百選の一つ。保延年間(1135~41年)に西行法師が奥州行脚の際に訪れ、「盛りには などか若葉は今とても 心ひかるる糸桜かな」と詠んだと伝わる。現在の桜は、その子孫が育ったということです。
ちょうど見頃で番傘が足元に飾ってあり雰囲気を出しています。
走っていたら、焼き立てパンの幟がありました。
入っていくと、農家です。
ここは前に来たような笑
ル・ベリーです。
時間が遅いせいか誰もお客さんは居ませんでした。
入るとご亭主が出てくて消毒してくださいと言われました。(汗)
パンも残り少なかったです。
パンを一つ買って外のベンチで食べました。
サクサクしていて、今まで食べた同じパンでは一番美味しかったです。
ふるさとの森公園に寄りました。
頂上に何があるのかなと登ったら子供の広場があり、家族連れが遊んでいました。
古い民家を移築した建物がありました。乃木坂46のロケ地にも使われていたようです。
梅曽しだれ桜です
那須神社に寄りました。
数年前にもサイクリンでお祭りに合わせて訪問しました。
参道の桜が綺麗です。
楼門が立派な割に拝殿はイマイチのような(汗)
仁徳天皇(313~399年)時代の創立で、さらに延暦年中(782~806年)に征夷大将軍坂上田村麻呂が応神天皇を祀って八幡宮にしたと伝えられています。
その後、那須氏の崇敬篤く、那須氏没落の後は黒羽(くろばね)城主大関氏の氏神としてあがめられ、天正5年(1577年)には大関氏によって本殿・拝殿・楼門(写真)が再興されたと社記は伝えています。
社宝には、那須与一が奉納したといわれる太刀や寛永19年(1642年)の建立と推測される楼門などがあり、春と秋の例大祭に奉納される永代々神楽、獅子舞、流鏑馬の行事なども有名です。那須神社の獅子舞の起源はさだかではありませんが、大関増清が応永年間(西暦1394年~西暦1428年)に、余瀬に白旗城築城の際、地鎮として舞われたものであると伝えられています。
金丸八幡宮(現那須神社)は、黒羽(くろばね)藩主大関氏累代の崇敬の的であり、9月15日の例大祭には城主みずから参拝し、舞を鑑賞したといわれております。
流鏑馬:文治元年(西暦1185年)那須与一が屋島での戦功により那須の総領になるや、同3年(西暦1187年)土佐杉をもって社殿を再建し、社領を寄進しました。わけても陰暦8月15日の例大祭は壮厳で、京都から神職や伶人を呼び、舞楽の奉納や、流鏑馬の騎式などを行い終日神意をなぐさめたと伝えられています。流鏑馬は、今も古式ゆかしく行われています。
那須与一が源平屋島の戦いで扇の的を弓矢で射落とす際、「南無八幡大菩薩・・・」と、心に念じた神社とも伝えられています。本殿全体の彫刻や彩色、楼門全体を彩る装飾などは独創的で、「中世と近世の特徴を併せ持つ神社建築」として高い評価を得ています。